「継続」自体も成果のひとつ。成果物をできるだけ広く捉えよう

お疲れ様です。

税理士の浅原です。

「継続する」ということは、それ自体に価値があると、

最近、感じるようになりました。

それまでは、継続することよりも、

求める結果が出せるかどうかが重要だと思っていました。

結果が出なければ、いくら継続しようが意味がないと。

税理士試験なども、いくら受験を続けようが、合格しなければ意味がないと。

確かに、試験ごとなどの成否が明確に出てしまうような物事は、

結果第一という考え方も致し方ないとは思います。

しかし、取り組む最初の段階から、結果が出るかどうかわかっているような事柄というのは、

予測可能な事案ということで、成果も予測可能な範囲内でしょう。

自然と、チャレンジの度合いが高ければ高いほど、結果の不明度も高くなりますが、

成果が予測の範疇を超えてくる可能性も出てきます。

それに、そもそも取り組む時点で、望むような結果は得られないだろう、

ということが分かってしまっていることもあります。

私にとっては、40歳から始めた空手が、まさにそれでした。

黒帯のA木選手、
きっちり隙のあるところを狙ってくるので、
動きについていけない

緑帯審査

空手を始めて5年目になった今年、緑帯の審査にチャレンジすることになりました。

以前のブログでも書きましたが、緑帯は、かなり強いです。

まさか自分が、という感じです。

それでも、時間は止まってはくれないので、審査の当日はやってきます。

あとは、時間の進み方に合わせて、やるべきことをやっていくしかありません。

形の審査は、いま自分にできる限りのことはしました。

あとは、組手審査を残すだけです。

私が通っている道場は、前半が少年部、後半が一般部となっており、

私は子供と一緒に参加しているため、

少年部が終わった後、いったん子供を家に送って、

そこからまた稽古場に引き返してこなければなりません。

審査当日も同じように、子供の送迎が終わって稽古場に戻ってくると、

組手審査はほぼ終了しており、残すは私の組手と、ほか数人、という状況でした。

「浅原さん、戻ってきましたね。それじゃやりましょう。前に出てください」

師範の掛け声で、組手が始まります

一人目のお相手は、緑帯N谷選手です。

屈強なフィジカルと陽気な性格をお持ちのムードメーカー的な選手です。

先ほどまで車を運転していた私は、

その時点で、思ったように足が動かないことはわかっていたので、

突っ込んでいって突きを出し続けるしかない、と思って、その通りに動きました。

近づいて突く、近づいて突く、を繰り返していたら、あっという間に1分経ってしまいました。

終わってからの息苦しさで、組手中、呼吸していなかったことに気づきます。

胸やお腹のあたりが痛いけど、何をされたのかは、まったく覚えていません。

N谷選手のあと、一戦はさんで、すぐまた私の番がきました。

二人目のお相手は、緑帯M田選手です。

タイヤのような筋肉でガードを固めて前進してくる重戦車的な選手です。

当然、私はまだ息切れしています。

でもやるしかありません。

失礼のないように、私から手を出そうと思って、

開始の合図と同時に、私も戦車になったつもりで、突っ込んでいきます。

何をしたのか、されたのかは、覚えていませんが、

私の圧力が弱くて、押し返されたことは覚えています。

三人目のお相手は、黒帯A木選手です。

細身なのに打たれ強く、切れのあるコンビネーションが特徴の選手です。

M田選手のあと続けての出番となり、子供の送迎で参加が遅れたことを後悔し始めましたが、

やるしかありません。

開始の合図から終了の合図まで、自分が何をしたのか全く覚えていませんが、

A木選手の上下の連打に手も足も出なかったことは覚えています。

私の息切れが限界に近づき、少し距離をとる時間が長くなってしまったことが、心残りです。

A木選手のあと、一戦おいて、最後の4人目、黄色帯のO橋選手です。

私と同じ時期に入会したのに、いまや空手の大会にも出場するようになり、

軽快なフットワークで相手をかき乱すO選手。

組手中、私が突きをひとつ出している間に、O選手からは3~4発の反撃がくる状態で、

私は殴られながら、「きれいな連続技だなあ」と感じていました。

立っているのが精いっぱい、の状態でした。

O橋選手(伏字になっていない)、
苦しくて、私のアゴが上がってしまっている

「継続」は、成果のひとつ

冒頭に戻りますが、

「継続する」ということ自体に、価値があると感じています。

「継続している」ということも、成果の一つだと思えるようになってきました。

反面、私の空手の技術の習得や上達の度合いは、

周りの選手たちと比較すると、おそらく進んでいません。

「空手を習っているのだから、空手が上達しなければ意味がない」といわれそうですし、

かつては私も、そう思っていました。

しかし、あるとき、「ひとつだけ」しか成果物として捉えない考え方は、

人生の選択肢を狭めてしまう、ということに気づきました。

ひとつの取り組みから生み出される成果物は、「ひとつ」とは限りません。

ひとつのアクションから、多くの変化が生じる、ということはよくありますし、

どの変化までを成果物に含めるか、というのは、本人の考え次第です。

私の場合、空手を続けることで、次のような変化がありました。

  • 筋肉が増えた
  • 風邪をひかなくなった
  • 骨折や打撲などの痛みに慣れた
  • 打撃を受けても、すぐにへこたれなくなった(少ない回数なら)
  • 空手の動きが、少しできるようになった(気がする)
  • 恥をかくことに慣れた
  • 知らない人や、知らない子供に、話しかけられるようになった
  • 仲間ができた
  • 仲間と、空手以外のことでも接するようになった

前述のとおり、技術の上達は無理だとしても、

私の体は丈夫になっていき、週に一度、拳で語り合う仲間に会える、というのは、

人生の折り返し地点を過ぎた私にとっては、非常に大きな副産物です。

いやむしろ、そちらの方が主製品といってもいいかもしれません。

「どういう点に満足するか」は、ひとそれぞれ違っていていいのだと思います。

私は、40歳から空手を始めて、いまも同じ道場で継続できている、ということに、

とても満足しています。

師範をはじめ、道場生の皆さんには、感謝しかありません。

まとめ

中年以降に新しいことを始める、という場合、

「成果物をできるだけ広く捉える」ということが、

物事を継続していくポイントだと思いました。

そして、継続できることがみつかれば、それはライフワークになり、

中年を過ぎてからでも世界を広げていくことができます。

物事を始めるのに「遅い」ということはない、ということを実感しています。

「決定の連続」が訓練になる。中年空手の効用