継続するためには「逃げ場」が必要

お疲れ様です。

静岡の税理士、浅原です。

今日で、ブログの記事が150本目になりました。

記事数がどうこう、というよりは、

それなりに負担のかかる(その割にリターンが微妙な)ブログが継続できている、という点に、

「ひょっとすると、私、『書く』という作業に適性があるのかな」

などと思ったりします。(自分が見えてねえな)

まあ、記事のクオリティはさておき、

継続性という点について、振り返ってみたいと思います。

続けようとする意思と、止めてもいいという意思

「何かを長く続けていこう」、としたときに、必要なのは、

「続けたことでの見返り」と、

「続けられなくてもいい」という許容性だと、

私は考えています。

特に、許容性が重要です。

何かを続ける、という行動には、

必ず負担が伴います。

続けるための時間、

続けるためのお金、

続けるための体力、

続けるための周りの理解など。

結局、何かを続けていこうとしたときに、

それは自分の意思だけでは達成できないものである、

と私は捉えていますので、

続けるための環境が整わなくなってしまったら、

ムリに継続しなくてもよい、という考えです。

私たち社会人は、学生さんのように、

自分のことだけやっていればいい、

というわけにはいきませんので。

また、仮にブログを始めてみたものの、

書くことが本当につらいのであれば、止めた方がいいでしょう。

実際に、手を付けてみなければわからないことは、

世の中にたくさんありますし。

問題は、

「本当につらくて、もう止めよう」と思ったときに、

「完全に手を引くのかどうか」の判断です。

もちろん、完全に止めてしまっても、かまいません。

ただ、一時休止という選択もありです。

何かと制約の多い社会人が、長く続けるには、

「今日だけは休もう」、

「今週は止めておこう」、

という逃げ道があってもいいと思います。

そして休んだ後、また興味や意欲が出てくれば、

そのとき復帰すればいいだけの話です。

その結果、

またゼロからのスタートになってしまうかもしれません。

それでいいじゃないですか。

リターンは得られなくなるかもしれませんし、

達成感などは、はるか遠くのものになってしまうでしょうけど。

私は、そういうことを仕事で繰り返していたので(転職のことです)、

いつまでたっても給与は上がらず、

職場でのポジションも、

「30過ぎなのに新入社員」という時期が、

長くなってしまいました。

それでも何とか、家族を養っています。

(楽ではないですし、家族は不安だったと思いますけど)

そもそも、

続けられなくて、途中で辞めて振り出しに戻ってしまうことを恐れていると、

スタートが切れません。

「振り出しに戻ることを恐れない気持ち」

それが、長く続けるためには、

ひいては、スタートを切るためには、重要です。

続けたことに対する見返り

継続してきたことに対して、何かしらの見返りがあると、

単純にうれしいですね。

今後も継続しようという励みになります。

問題は、見返りがない場合です。

長いこと続けてきたけど、実感できるような見返りがない、

という場合です。

でも、そういう場合でも、

探せばきっと、小さな見返りはあるはずです。

私のブログの場合だと、

記事を書き終わって、

ワードプレスの「公開」ボタンを押すときです。

その瞬間、

お腹の中から出てくる「うぉぁぁ~~」という低いうめき声と伴に、

達成感を得ることができます。

「今日も、朝のお勤めを終えたぞ」と。

私にしか理解できない、非常に小さな見返りですが。

最近は、

記事のクオリティとか、アクセス数とかは気にせずに、

この朝の「うぉぁ~」のために、記事を書いています。

続けていれば、

何かしら、見返りはあるはずです。

差し出せば、返ってくるのが、

世の法則だからです。

返ってくるのに、タイムラグがあったり、

本人が期待したものではなかったりして、

気付きにくいですが。

昨日の仕事

  • お客様の会計データの入力

データ入力作業は、考える仕事に比べて、疲労を感じる。

考える仕事の方が、明らかに休憩時間が少ない。

思考を伴わない単純作業の方が、脳も体も、意外と負担は大きいようだ。

データ入力作業で使う小道具たち